横断的に/倫理観が終わっています

生きのばし/The ピーズ

 

f:id:gmnns1:20231018042050j:image

日光に見張られたせいでフローリングに積もった毛羽だつ埃を暴かれる。起きがけに「まだ今日も生きてるのか(また死ねなかったのか)」という言葉がぼんやり脳内に浮きあがらなくなったのはいつからだろう。去年の秋の湿り気のないマットレスの感覚を覚えているので、それまでは起きるたび体に走る痺れのような、一音の響きによる生活への諦念、降参、服従、辟易、倦厭、閉口。

 

獣道がくっきりとした土の道になるように、年数をかけて平されてしまった思考なのでもう日常になっていた。時間になったら食事を摂るように、歯を磨くように、眠るように。日々のルーチン。意味や目的を逐一自分に求めない、行動の一環に組み込まれていた。

 

「『死にたい』と言われるとこちらも入院させざるをえないので、言わないでください。嫌でしょ?入院。」

 

自分の中で留めておけば、世界に対して加害をしてないことと一緒なのだと知った。(あくまで私の価値観ではあるが、私の行動全ては自己中心的であり加害である。それが例え他人の目に「善」として映ったとしても。)

 

病的だったとは思う。ただ私が生きていく上で特に支障が無かったことや社会が「迷惑を被っていない」なら寝起きに浮かぶ言葉は病にならなくて、ただ自分の中に存在しているだけの現象、と割り切れていた。(もし他人がこのような思考回路になっているなら私は迷いなく「病院に行き適切な治療を受けるべき」という加害を行う)

 

最近、意味のわかる人の歌が恋しくなる。ジャズでもなく英詞でもなく電子音でもない、バンド音楽。私のルーツ。昔ほど歌わなくなって「覚えるための音楽」として女性の歌を聴かなくなった。代わりに自然と男性の歌う歌を聴くようになった。『Theピーズ』は絲山秋子の小説で知った。絲山秋子は高校生の頃、匿名チャットで教えてもらった。『逃亡くそたわけ』では確か『Theピーズ』の歌詞が所々で引用されていた気がする。なんとなく名前だけ知っていたがそこまで興味があったわけでもなくレンタルするまでもなく名前を知ってから10年以上が経った。通勤する時はなるべく新しい音楽を聴きたい。そう思って『生きのばし』を聴いた。

 

 

『死にたい朝 まだ目ざましかけて

 明日まで生きている』

 

 

私の「まだ今日も生きてるのか(また死ねなかったのか)」の言葉に、人の声とメロディと意味が塗りたくられたと思った。同じ雨雲から降ってきた雨だと思った。人類が一人の女性から始まったみたいに、言葉や表現は枝分かれしても、誰しもが持っている色使いと原型が一緒の感情だと思った。そしてやけに染み渡ったのは「まだ生きてる/また死ねなかった」という気持ちに蓋をしていたからだと気づいた。蓋は閉まり切っていなかった。

 

f:id:gmnns1:20231021000403j:image

 

生きる自由/死ぬ自由で考えていた。「そうする為には」の理由を考える必要もあった。存在価値、いや価値という価値観すら無駄。削ぎ落としてただ存在すればいいという落とし所まで見つけた。けれどもっともっとその真ん中に(いや、もっと別軸なのかもしれない)怠惰に不健康にだらだらと無駄に生きのばす自由もある。怠惰に不健康にダラダラと無駄に生きのばすという目的。(性格診断の「ややそう思う/ややそう思わない」というグレー)そしてきっと、なんとなく死んでも良い。

 

毎日幸せだと思う。「あの時に戻りたい」とも思わない。今この瞬間も幸せを更新し続けている。それでもまだ、こびりついてしまった形骸化したルーチンの、言葉にまったく意味が注そがれていない「まだ今日も生きてるのか(また死ねなかったのか)」の言葉が時々浮かんでくる。(大概は、楽しいことがあった帰りの電車の中だ)その言葉に対して、意味の着色をした『生きのばし』

 

決めなくても良い。ずるずるとそのまま。泥を引き摺りながら歩いても良い。泥の跡が私の痕跡。

 

‎生きのばし - The ピーズの曲 - Apple Music