横断的に/倫理観が終わっています

オタ活と推し活

ネームボードを作ってみた。作ったぞとTwitterで言うのもなんか承認欲求の塊。それはそう。あと真似されるっていう恐れ。あのね、これもYoutubeの解説動画見ながら作ったものなの。だからこれも真似なの。でもここぞというときに賞賛を浴びたいわけ。他人の褌で。ああ何歳になっても器が小さいなと思う。何歳になってもというよりかは10代の私が顔を出している。私のアイディアを盗んで更に賞賛を浴びる人間の姿を見てしまったら私はきっと許せないから。恥ずかしいなあ。格闘ゲーマーの人は自分の手の内を明かしていくという話は結構有名で、それってコミュニティの盛り上がりを考えたときに善いことだとされているかららしい。自分の弱点を攻略される→攻略された自分はそのメタを考える…というサイクルを想定しているらしい。私は自分の弱みと対峙するほどそんなに強くないからもういいんだ。常に成長しなければいけないという空気が誰かを押しつぶしているなら別に成長しなくて良いよといいたい。最近は頭がぐちゃぐちゃだ

2006年オールドコンデジの旅

 

おじいちゃんからもらったIXY900をCHDKでRawで保存できるようにした。

 

 

20250504三鷹~吉祥

 

最近はスト6用にレバレス欲しくてHaute42の設定やら天板作成。
その前はDivoom Times Gateを買ってGIFでの画面設定など。
ちょとちょこデバイスいじってひと手間加えるのが楽しい。

本当は個人サイト立ち上げて自分の作った作品なんかも上げられるようになりたいが

やってみたいことでいっぱいいっぱいである。

 

制作だと
・動画(仕事以外でVの非公式切り抜き)

・モーショングラフィック
・3DCG

インプット系だと

・デザイン

・写真知識

・読書

 

ここらへんはAIに相談して道筋立ててもらって取り組みたいところ。

 

 

エンタメ業界の端っこで働いていだけど杜撰だったな。
色々な職種を経験したけどここまでひどいところってなかったな。

上がこじれてるから下がやばいことになってるっていう
こういうのはビジネス用語でなんていうんだろうね。

正直杜撰でも良いけどさ、あくまでエンタメに携わってるトップが

他人の創作に対して心無い言葉をかけるのは筋違いだよね。

 

お前は、一生流されて一生決められなくて

そんな環境で凝り固まった人間になってしまって

そこが楽だからって冒険しないような人間になっちゃうことが

私はとても悲しいよ。

私の悲しみは私がお前をおもしろいと思っていて

期待が外れてしまったからなんだけど実際本当につまらないんだ。

男とそれ以外しか存在していない世界。

 

全て私の勝手な話。

 

 

どこかへ行くための手段

精神が病みやすい時は肉体が疲れているので単純に睡眠時間を増やすことが大事。正では無い。悪夢は現実以上の疲労が溜まるので心も休まらない。ゆっくりできる一人の時間を取る。正では無い。ゆっくりした分の頭の余白に埋まっていくやるせなさ。一人で一人分の自分の好きな美味しいものを食べる。正では無い。食べた後の罪悪感。この世から1グラムでも消えてしまいますように。

 

感情の波は最後どこまで届くのか。ゆらゆら揺れてただ一つの線になる時が来るのか。深夜、雪道のすすきのから帰るタクシーの乗車中に考えていた。私は、私は来てくれたお客さんが今日一日の最後に出会う人間なのだ。その人間たちの一日で感じた感情の総括を様々な感情の形で受け止める。怒りには怒り、悲しみ、同情。喜びには更なる喜び。楽しみには過剰な阿呆。静謐な内面に対して波止場になるように。でも夜間タクシーの運転手は?夜の繁華街、最後に乗せるお客さんの大概は夜職の、様々な肩書を持つ人間の感情の波を受け止めた人間だ。その感情の波を、桶で泡を流すように運転手に寄せられた時、誰へ流れていくのだろう。日陰の路地裏、太陽の当たった部分が中途半端に溶けて氷の轍になったでこぼこの道に揺られながら考える。「この白いアパートの前で降ろしてください」「これ、灰色の壁ですけど」色覚恒常。冬の電柱から漂う冷気と運転手の言葉の温度は一緒だった。昼間は白いアパートで、夜にスポイト機能で抽出すると灰色をキャッチする。ひとりひとりのニュートラルが違う。ただそれだけのことだ。

生きのばし/The ピーズ

 

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日光に見張られたせいでフローリングに積もった毛羽だつ埃を暴かれる。起きがけに「まだ今日も生きてるのか(また死ねなかったのか)」という言葉がぼんやり脳内に浮きあがらなくなったのはいつからだろう。去年の秋の湿り気のないマットレスの感覚を覚えているので、それまでは起きるたび体に走る痺れのような、一音の響きによる生活への諦念、降参、服従、辟易、倦厭、閉口。

 

獣道がくっきりとした土の道になるように、年数をかけて平されてしまった思考なのでもう日常になっていた。時間になったら食事を摂るように、歯を磨くように、眠るように。日々のルーチン。意味や目的を逐一自分に求めない、行動の一環に組み込まれていた。

 

「『死にたい』と言われるとこちらも入院させざるをえないので、言わないでください。嫌でしょ?入院。」

 

自分の中で留めておけば、世界に対して加害をしてないことと一緒なのだと知った。(あくまで私の価値観ではあるが、私の行動全ては自己中心的であり加害である。それが例え他人の目に「善」として映ったとしても。)

 

病的だったとは思う。ただ私が生きていく上で特に支障が無かったことや社会が「迷惑を被っていない」なら寝起きに浮かぶ言葉は病にならなくて、ただ自分の中に存在しているだけの現象、と割り切れていた。(もし他人がこのような思考回路になっているなら私は迷いなく「病院に行き適切な治療を受けるべき」という加害を行う)

 

最近、意味のわかる人の歌が恋しくなる。ジャズでもなく英詞でもなく電子音でもない、バンド音楽。私のルーツ。昔ほど歌わなくなって「覚えるための音楽」として女性の歌を聴かなくなった。代わりに自然と男性の歌う歌を聴くようになった。『Theピーズ』は絲山秋子の小説で知った。絲山秋子は高校生の頃、匿名チャットで教えてもらった。『逃亡くそたわけ』では確か『Theピーズ』の歌詞が所々で引用されていた気がする。なんとなく名前だけ知っていたがそこまで興味があったわけでもなくレンタルするまでもなく名前を知ってから10年以上が経った。通勤する時はなるべく新しい音楽を聴きたい。そう思って『生きのばし』を聴いた。

 

 

『死にたい朝 まだ目ざましかけて

 明日まで生きている』

 

 

私の「まだ今日も生きてるのか(また死ねなかったのか)」の言葉に、人の声とメロディと意味が塗りたくられたと思った。同じ雨雲から降ってきた雨だと思った。人類が一人の女性から始まったみたいに、言葉や表現は枝分かれしても、誰しもが持っている色使いと原型が一緒の感情だと思った。そしてやけに染み渡ったのは「まだ生きてる/また死ねなかった」という気持ちに蓋をしていたからだと気づいた。蓋は閉まり切っていなかった。

 

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生きる自由/死ぬ自由で考えていた。「そうする為には」の理由を考える必要もあった。存在価値、いや価値という価値観すら無駄。削ぎ落としてただ存在すればいいという落とし所まで見つけた。けれどもっともっとその真ん中に(いや、もっと別軸なのかもしれない)怠惰に不健康にだらだらと無駄に生きのばす自由もある。怠惰に不健康にダラダラと無駄に生きのばすという目的。(性格診断の「ややそう思う/ややそう思わない」というグレー)そしてきっと、なんとなく死んでも良い。

 

毎日幸せだと思う。「あの時に戻りたい」とも思わない。今この瞬間も幸せを更新し続けている。それでもまだ、こびりついてしまった形骸化したルーチンの、言葉にまったく意味が注そがれていない「まだ今日も生きてるのか(また死ねなかったのか)」の言葉が時々浮かんでくる。(大概は、楽しいことがあった帰りの電車の中だ)その言葉に対して、意味の着色をした『生きのばし』

 

決めなくても良い。ずるずるとそのまま。泥を引き摺りながら歩いても良い。泥の跡が私の痕跡。

 

‎生きのばし - The ピーズの曲 - Apple Music