横断的に/倫理観が終わっています

死人の誕生日を覚えていたことについてこんなにもクソだと思う日は無かった

 

自死の話題がありセンシティブかと思います。
気分の落ち込んでいる方や落ち込みやすい方は見ないでください。

自己責任で読んでください。

 

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今夏、東京に来て1年が経ちそろそろ環境にも慣れてきて帰省してのライブや、動画制作など楽しいことが目白押しだな!と考えていた矢先に足の火傷や会社都合による退職からの転職などBADなライフイベントが重なり、覚えていることといえばただひたすらにべたべたとひっつく湿気。気づけばライブも展示も全てが終わっていて秋になっていた。

 

正確に言えば9月の半ばには全て終わっていたのだ。ただこの駆け抜けた勢いで急ブレーキをかけるときっと燃え尽きてしまうんだろう。今まで生きてきて何回か経験してきたことなので一段落をする前に、会いたい人に会って一緒に見たり食べたり話をしたり音楽を聴いたりした。たまに訪れる無言の時間も風鈴の音のように涼やかで、蒸発しそうな身体に風を感じさせてくれた。誰かと会って喋るのは大好きだ。出かけるのも大好きだ。沢山のものを見聞きしたい。知らないことをひたすら眺めていたい。あなたの生きてきた全てを聞きたい。ジェスチャーをつけて。

 

休みがなかったわけではないけれど粗熱をとる必要があった。夏の間に象った自分をゆっくり定着させないと、さなぎの中でぐちゃぐちゃになって皮膚の形成が出来ないまま外の世界に排出されて真皮が曝され風が吹く度に痛みで泣いてしまう。仕事が休みの日でも外出をしたり、人と会ってもらったりした。みんな忙しい中時間を割いて快く会ってくれて本当に嬉しかった。ありがとうございました。私は私以外の人たちの眼差しでできている。


今朝目覚めて1番最初に思ったことは「あの店のケーキを買いに行こう」だった。あの店、とは近所にある中年のご夫婦が営んでいる小さなケーキ屋で私はあの店のチョコレートケーキが大好きだ。小ぶりな丸型のチョコケーキの上には深い赤のフランボワーズソースがかかっている。お店に行くたび必ず買う。そしてそのケーキと共に季節の果物を使ったタルトを一つ買うようにしている。この店のタルトはクッキー生地がしっとりしていてフォークで生地を刺してもバキッと割れて砕け散ることもないのでカスタードクリームと一緒に味わえる。今日はシャインマスカットのタルトだった。先週、山梨県に行ってシャインマスカットのパフェを食べた後、微動だにしない富士山を眺めたことを思い出した。チョコレートケーキとタルトと、ついでに家族へガトーショコラも買った。

 

店を後にしたとき、乾いた冷風が私が住んでいた頃の故郷の9月中旬を持ってきた。私に「平熱ですよ」と教えてくれた。休んでも良いよと教えてくれた。冷え性の手足に戻っていたことに気づく。

 

どちらを先に食べようか考えながら帰宅した。チョコレートかタルトか。前者ならコーヒーと、後者なら緑茶と。…緑茶を飲んでホッとしたいと思ったので、私の大好きな『パンダコパンダ』の柄の湯呑にあたたかい緑茶を注いで、弟がプレゼントしてくれた金縁の白いお皿と金のフォークを準備してタルトを載せようとケーキが詰められた箱を開けようと、留められたシールを剥がそうとして今日の日付が目についた。

 

当日中にお召し上がりください。

消費期限 10月8日

 

私の本名と1字しか違わない、小学中学生の頃に私をいじめていた、2019年に自殺したあいつの誕生日だ。私は「思い返してみればあいつからいじめを受けていたんだ」と自覚できたのは20代に差し掛かった頃だった。あいつは私と同い年で小学生の頃から中学1年生の半ばまで行動を一緒にしていた人間で毎日登下校も共にしていた。定期的に他の友人を目の前にして私を扱き下ろしたりグループから外したりした。最終的には、話かけても無視をされ、直接名指しはしないでも私とわかるような身体的な特徴を挙げて大声で悪口を言っていた。今思い返して端的にあいつのことを表すとするならば、スケープゴートを作り上げてでしか友人関係を作れないような人間で私に寄生して自己肯定感を吸い上げていた人間だった。私自身の家が機能不全家族だったことも大きいけれど、ただでさえ狭い田舎の学校生活で「あいつ」から嫌われることは、世界を見渡す事ができない身体の小さい小学生にとって安心できる世界では無く、ただただ無力感のみで自尊心を削られるだけだった。中学生になってから、あいつに仕返しできるような環境にもなった。でもそれはやらなかった。新しい友人関係が楽しかったし、同じことをしたくなかった。私にできることはもうあいつとは関わらない。

あいつが死んだのは、私が猛烈に「死にたい」と思っていた時期だ。誇張では無く毎晩泣いていた。その時の日記がちょうどあった。

 

 

ビートを刻む音は心音の速さを管理されているようで不快。いっそ本当に呼応していてほしいし極限までスローテンポを刻みそのまま心臓を止めてくれ。与えられた命は全うしろ、死ぬ気があるならなんでもできる、死んだら負け。本当に煩わしい。自分の感性の無さと自己中心的な思考に対して何の興味のないひとたち。その言葉が震えているんだよ、脳内で、爆音で。地獄を生きてると本当に思う。幸せな時間ももちろんあるけど全てが終わって歯を磨いていると口いっぱいに死にたいとミントが広がっていく。いいことも悪いことも嫌い。感情の波が不快。セットした前髪が心地いい風でなびいた時の気持ち。早く消えてしまいたい。ずっと思ってる。そのきっかけを作ったあいつが自殺して本当に悔しい。なぜ私が死なない?命の最大限を生き地獄として使って欲しかった。私がしたいことを追い抜いてゴールしてしまった。くやしい、くやしいよほんとうに。ずっと苦しんで欲しかった。死んだお前が勝ち組で正しいなんてそんな馬鹿な話があってはいけないんだよ。仏教で自殺は罪では無いの?地獄に行った?じゃあここはどこですか。

 

 

当時書き留めていたブログに2019年10月8日9時48分に投稿されたものだ。確か、親からの連絡で「新聞のおくやみ欄に名前があった」との連絡があり、その後新聞を確認した際には葬儀済と記載があった。あいつはあいつ自身の誕生日の数日前に死んだのだろうか。私の地元では夕食時に町内放送が流れる。大概は明日執り行われるどこかの家のお年寄りの告別式や葬儀の日にちだ。でもあいつが死んだ時にはそんな放送は無かった、という話だ。

 

ここまで書いたけれどあいつが自殺したということを証明できるものは何一つ無い。ただ言えるのは、私は「あいつは絶対に自殺をした」という要素を多数思い浮かべることができる。

 

例えば一つ、私の通っていた小学校では読書感想文を書かされ提出し終わった時期に、1年生から6年生までそれぞれの学年で1番良いとされた読書感想文を校内放送で読み上げるという行事があった。あいつは毎年選ばれていた。そういう人間だった。雑に吐き捨てると、狡賢く繊細な人間だった。

 

死人の悪口を言うのは良くないと言われるけれど私にはそれがわからない。『死人に口無し』で相手が反論出来ないから、私が卑怯者とみなされるからなのだろうか。私が書き連ねたことは私自身の身に起きた事実を述べているだけ(だと思っている)し、私は当時あいつに対して悪口を言ったりいじめ返したりはしていない。ずっとずっと我慢していた。そしてあいつは自殺した。本当に許せなかったし今でも許せない。だからこそこうして怒っている。私のやっと取り戻した体温計に触らないでほしい。私があいつの誕生日を覚えているのは知り合ってから7年間、毎年誕生日プレゼントを送っていたからだ。人間は都合の良い生き物だから、憎い相手に対して施したことは覚えていて、私があいつから貰ったものは一つも覚えていない、というより全て捨てた。ひたすらに「負けた」と感じる。永遠に追い越せない。波風のない何もない場所。

 

ケーキが詰められた箱を開けようとした一瞬で過ぎった感情はさっき買ってきたばかりのきらきらしたケーキたちを見た瞬間に流れていった。タルトのてっぺんにのっかっているつややかなシャインマスカットを早く食べたい。

 

あたたかい緑茶と、金縁の白いお皿と金色のフォークとシャインマスカットのタルト。なんて幸せな休日なんだろうと思った。駆け抜けてきた先の腰掛岩。脱力して、頭の中のものが何もない状態。あいつはこの幸せを知らない。駆け抜けた先に何があるかなんて誰にもわからない。あるのは焼けてしまった野原が広がった光景なのかもしれない。でもそれでも、その地点が0でもマイナスでも、まだ立ち上がれるなら私はそこを草原にするし家を建てる。何度も何度もそうしてきた。というよりそうできたのは私は運が良かったから。絶望もしたけれど色々な人に出会って助けられてここまで来れた。そしてあいつは運が無かった。ただひたすらに運が無かった悲しい人間。ただそれだけのこと。

 

今日は最低最悪最高の日。